【全てはイリュージョン(幻影)に過ぎなかった】
誰しもが心に過去からの傷を負っている。
過去のトラウマ。
これを見たくないものとして自分の中でその存在を否認したことにより、
心の中に光の当たらない部分「心の闇」ができた。
触れてはいけないもの、
それについて言及してはいけないアンタッチャブルな心の領域、
それが「心の闇」です。
決して目の届かない心の奥底に封印されている無意識の「心の闇」が時折疼く(うずく)と、
私は不快感を感じて不機嫌になる。
私は「心の闇」の存在を否認しているので、
その不快感が自分の「心の闇」から直接的に来ているものだとは気付かない。
私は「心の闇」が投影(とうえい)されて映し出された外の世界の方に不快感の原因を見ることになる。
私は他人に悪いところがあるから悪く言っているだけで、
目に見えているそのまんまに、事実を言ってるだけだと思い込んでいる。
外の世界の他者に蔑んで(さげすんで)いるものや嫌いなものを見て、
他人を批判したり悪口を言うことで、
無意識に自分の内側の「心の闇」からくる不快感を除去できると私は勘違いしている。
実際には他人を裁くことにより、私の世界を見る動力源である「心の闇」は増大して、
私は更に不快感を強く感じるようになり、他人への批判や悪口が止められなくなる一方なのです。
問題の本当の原因は世界や他者にあるのではなく自分の「心の闇」にある。
私が批判や悪口を言っている他者とは、
私の「心の闇」の投影先(とうえいさき)として存在しているにすぎない。
私が「心の闇」の投影(とうえい)による批判や悪口によって作り上げている彼の概念は酷い物だが、それは虚像(きょぞう)に過ぎない。
彼に罪悪は無いと彼を赦し(ゆるし)、私自身を赦す(ゆるす)ことで私の「心の闇」に光を当てることができる。
赦しという光によって「心の闇」が消滅すれば蔑んで嫌っていた他者の虚像も姿を消し、
全てはイリュージョン(幻影)に過ぎなかったと知るのです。
【パロディーがオリジナルを超えた!】
神が創造したままのオリジナルの神の子。
彼は神の完全なる寵愛を受けている。
しかし神と共に天国に居たある時、
オリジナルの神の子である私が、もし神から分離できて、
自分で思い通りの自分になるというアイデンティティーを持てたなら、
物凄く特別な存在になれる、という妄想を抱いた。
そう思った瞬間、私は神から授かったままのオリジナルの心が見えなくなりパロディーの存在となった。
同時に神の愛も感じられなくなったが、私の目に映ったのは神の完全なる寵愛を受けている私とは分離したオリジナルの神の子であった。
手の届かない世界。
パロディーとなった私がオリジナルに対して抱いた率直な感情は、
「真っ直ぐに生きるキミが”嫌い”だった
羨ましさを胸に隠して」
というかつてない羨望だった。
私がこの地球世界にやって来た真の目的は
「私の思い描いたパロディーが神が創造したままのオリジナルの神の子を超えた!」
『パロディーがオリジナルを超えた!』
と証明するためであった。
しかしオリジナルは偉大である、パロディーは二次創作に過ぎない。
神が創造したままのオリジナルの心と融合しよう。
あなたはずっとそうだったのでありそれが不可能であるはずがない。
おかえり
【光と闇を抱きしめたまま】
「世界を見る」とは、すなわち解釈であり、つまり「世界の見え方」を伴うということです。
自我による世界の見え方の根底にあるのは欠乏の原理であり、必ず足りないものをそこに見る。
自我は赦しを知らないため、
自我に答えを問うなら、多かれ少なかれ非難と裁きと咎め(とがめ)と不満足が、他人がしたことに対しての受け取り方となる。
この心の中の欠けている部分が、心の闇です。
それを自分の内側に見たくないがゆえに、外の世界に闇を映し出して、
私は他人のせいで不満を感じているのだ、と文句を言うことになる。
私たちは不満の原因は世界や他者にはないと赦すことが求められる。
私たちは神より授かった『たった一つの生命(いのち)』を共有している。
この"たった一つの生命"こそが光であり
私たちを永遠(とわ)に繋ぐ「不滅の絆」である
心の中の闇が外に映し出されることで見えている世界は幻であり、
真の充足は心の内側に神が灯し(ともし)続けている光を認識することで達成される
愛をください "きっと誰もがそう願った"
愛をください "そっと震えた手を取って"
絆は残っているよ どんな時にもね
君の手を見てごらん 光はその手に.....
傑作選
- エンジェル・ダスト
- 2024/05/03 (Fri) 06:53:49