厳選作品集まとめ
【赦し(ゆるし)によって罪は実在せず、苦痛の本当の原因はこれから訂正可能だと気付ける】

僕は高校の頃に重度の慢性炎症になっていて、
その病気の苦痛のストレスでクタクタに疲れていて高校を辞めたかったのですが、
母親が僕を無理矢理学校に通わせて、
更に学校に通うために重い副作用のある治療を嫌だったのに強要したのです。

無理強いされたせいで高校卒業後も病気の後遺症のすさまじい苦痛とストレスがずっと続いたのです。
これが僕のトラウマであり、母親の罪と僕が思い込んでいたものです。

ここ2年間ほど母親を赦そう(ゆるそう)としていたのですが、
それでも毎朝「嫌がってるのに無理やり学校に通わされた」とお決まりのフレーズが頭に浮かび、
「やっぱり母親の罪は実在する」と、いつまで経っても赦せなかったのです。
しかし赦そうと意思し続けたことは無意味ではなかったのです。
遂に、僕の慢性炎症の本当の原因が明らかになったのです。

それは「チョコ菓子」「スナック菓子」「クッキー」「菓子パン」「炭酸飲料」「ガム」「飴」「グミ」「アイス」「カップ麺」「ポテトチップス」といったものをずっと習慣的に食べていて、
それらの食品に含まれる「砂糖」「人工甘味料」「トランス脂肪酸」「オメガ6脂肪酸」「添加物」
が許容(きょよう)できる臨界点(りんかいてん)を超えて大量摂取していたせいで慢性炎症になっていたのが判明したのです。

これらの悪しき食習慣が、高校の頃からの僕の身体の炎症と、
脳の慢性炎症による脳機能低下から生じる精神的な不快感と不安と苦痛とストレスとの真の因果関係(いんがかんけい)であり、
母親のしたことが苦痛の原因でなかったのです。

赦し(ゆるし)によって母親の罪は存在していなかったことが明らかになった。
本当の原因だった食習慣はこれから訂正すればいいのです。

赦し(ゆるし)によって他人のしたことが苦痛の原因ではなく、
従って罪は実在せず、苦痛の本当の原因はこれから訂正可能だと気付けるのです。

【人は事実に怒るのではなく、それを酷いと解釈することによって腹を立てるのです】

私たちは嫌な事があっても、反射的に怒っているのではなく、
出来事の意味を理解しようとしているうちに、
酷いと解釈(かいしゃく)することによって腹を立てるのです。

これは自分では自覚できないようなプロセスで為される(なされる)。

ネットや陰口などで誹謗中傷されている場合でも、
人は事実によって怒るのではなく、
それを酷い(ひどい)と『解釈(かいしゃく)』することによって、
「自ら(みずから)それをそのようなものにすることで」腹を立てているのです。

従って(したがって)、嫌な事があった時でも、それを酷いと解釈することは自滅行為です。
赦し(ゆるし)を選択することは、この酷いという解釈を消し去ることです。

【怒りや憎しみで心の闇を倒すことはできない】

私は過去のトラウマを思い出した時、それがいかに酷い話だったかを考える。

そして被害者意識で解釈(かいしゃく)して、その酷い話が真実だったと確信(かくしん)している。
「なぜなら私の感覚がそうだと言っているから」です。

だが酷いと解釈することによって、
「それをそのようなものにしたのは他ならぬ私自身である」と認めなければならない。

私が「心の闇」を持っているのなら、
その無意識の心の闇は頭の中のスクリーンに投影され、
映し出されたイメージを憎しみと共に解釈して、その酷い話が真実だったと確信するだろう。

つまりトラウマを頭の中で思い出した時、背後には自分の「心の闇」があるのです。

「怒りや憎しみで自分の心の闇を倒すことはできぬ」
「怒りでも、憎しみでもない。赦しこそが闇を克服(こくふく)し、心に光をもたらすのだ」

【私の一部(part of me)】

私には病気の過去のトラウマがある。
私がトラウマを思い出す時、反射的に自分を庇う(かばう)ために、自分が苦しいのを人のせいにする。
この苦痛の責任は私にはない、相手が処罰されるべきで、私は救われるべきだと。
私は自分を庇うために他者を憎むのだが、それは逆効果であり、私自身を傷つける。

私が考えることは全て、私の心の一部となる。
私は私の心の中でしか考えることができない。
私が誰かを憎む時、それも「私の一部(part of me)」となる。
従って(したがって)その憎しみは私自身である。
私は自分自身に影響を与えずに他者を憎むことはできない。

これが想念(そうねん)の性質です。
心の中で愛したり憎んだりする対象(たいしょう)に、私やあなたという区別はなく、
私たちの正体は「たった一つの想念」なのです。

従って心の中で相手を赦す(ゆるす)ことは私自身に赦しをもたらす。
もう自分を憎まなくてもいいのです。

【心の中の特別性】

私には私が蔑んでる(さげすんでる)人のインターネット上の日記(ブログ)を見たり、
私の誹謗中傷のネット掲示板を見てしまうという心の闇がある。

メリットが何も無く心を蝕む(むしばむ)だけだと分かっていることをするのはネット依存症なのです。
だがこれらの蔑んでる人のブログやネット掲示板を見る前に「何かが先行していた」はずである。
それは心の中の特別性である。

私はかつて遥かなる故郷で神に、
「私が作り出した私の自我を、神が創造したままのオリジナルの神の子以上であると認めろ」
と特別な好意の承認欲求をしたが、神はそれに何も返さなかった。
神と神の子のオリジナルの関係以外に本当の愛は存在しないからです。

自我は特別な好意を求めるという、特別性の承認欲求を他人にする。
それは神と神の子の間で交わされていた本物の愛の代替品(だいたいひん)です。

特別性とは他者との比較において有利性や優越感を感じることで、
神の愛を失ったことで心にぽっかり空いた穴を充足できるという幻想です。

私が蔑んでる人のブログや、私の誹謗中傷のネット掲示板を見る前に、
必ずこれらの特別性を求めるという心の中の決断が先行しているのです。

私は心の中で特別性を求めるという選択をしてその後、
蔑んでる人のブログや、ネット掲示板を見て、
そしてそれらの特別性に私は必ず落胆(らくたん)を感じるのです。

特別性とは神の愛の代替品です。
それよりもオリジナルをその手に取り戻すべきなのです。

例えばあなたが他者との関係で、
かつての神と神の子で交わされて(かわされて)いたオリジナルの関係を再現(さいげん)するなら、
あなたは心の奥底にある、遥かなる故郷の記憶の封印を解くことになる。

【トラウマからの解放】

「自分が苦しいのを人のせいにする」というのは割と一般的だ。

過去に嫌な出来事があった。
起こった事は変えられないし、その時に苦しむのは不可避(ふかひ)です。
だがこれはキッカケに過ぎない。
その後、それがトラウマとなることで、思い出す度に何度でも苦しむことになるのです。

時折過去のトラウマを思い出すが、
その時、自分を庇う(かばう)ために反射的に被害者意識を持つ。
「彼の落ち度のせいで私は苦痛を被った(こうむった)」
この頭に思い浮かんだそのまんまが真実だとしたら、私の苦痛の原因は彼にあるということになる。

私は過去の嫌な体験で傷つき、今度はそれを思い出すことによって再び傷つく。
何度でも思い出してその度に傷つく。

この思い出すことによって再び傷つくのは本当に彼のせいなのだろうか?
本当は全部自分でやっているのではないか?
自分で思い出して自分の心を傷つけて自傷行為をしているだけではないか?
それは本当に他人のせいなのだろうか?

この時何が起こっているのか?
思い出すことによって過去の出来事があった場面が脳裏(のうり)のスクリーンに映し出されているのだが、
その映写機(えいしゃき)は背後の自分の心にある。
それが「心の闇」である。

無意識の心の中の憎悪や欠乏感、罪悪感、自分を否定する感情、が自分の脳裏のスクリーンに映し出されてイメージとなり、
それが過去のトラウマを思い出すということです。

私は自分が苦しいのを頭の中のスクリーンに映し出された彼のせいにしている。
「彼の落ち度が私の苦痛の原因だ」と。
「なぜなら私の感覚がそうだと言っているからだ」と思っているが、
イメージされた彼は、「心の闇」が自分の頭の中のスクリーンに映し出されたイリュージョン(幻影)に過ぎない。

イリュージョン(幻影)はなんのためにある?
「心の闇」が憎悪を栄養として必要としていて、そしてそれは私が自分で気付かないようなやり方でなされるのです。
頭の中のスクリーンに映った彼を憎悪することで、
つまり「自分が苦しいのを人のせいにする」ことによって、無意識の「心の闇」は増大するのです。

こうして私は被害者意識を持ち続けることになるし、
嫌な思いをする度に「自分が苦しいのを人のせいにする」という考え方をずっと続ける。
つまり私は無意識の「心の闇」を持ち続けるのです。
これがイリュージョン(幻影)の目的です。

では心の闇から解放されるにはどうしたらよいか?
それは「心の闇」がイリュージョン(幻影)であるトラウマ(私は本当にこれが好きなんだなぁと思う)を脳裏のスクリーンに映し出した時、
「苦痛の原因は彼らにあるのではなく私自身の心の闇にある、だからこのイリュージョン(幻影)の登場人物の彼を私は赦す(ゆるす)という決断をする」ということです。

こうして彼に赦し(ゆるし)が与えられ、
同時に原因である私の「心の闇」が赦される(ゆるされる)。

やがては私に嫌な思いをさせた他者を脳裏のスクリーンに再現させる必要性が無くなるのです。

これにより過去を思い出してその度に不快になるという繰り返しに終止符が打たれる。

【正解】

過去の嫌だったことを思い出すと、反射的に自分を庇う(かばう)ために被害者意識に囚われる(とらわれる)。
自我はその嫌だった過去を理由に、私が心に憎悪の意思を持つことを強要してくる。

そして私は、心の中に憎悪の他に選択肢は無いと誤解し、私は正しいのだと騙されて(だまされて)しまう。

「なぜなら私の感覚がそうだと言っているからだ」と。

主観的(しゅかんてき)には「私の感覚がそうだと言っている」にもかかわらず、
自分の被害者意識による憎悪が、客観的(きゃっかんてき)には間違っているのだと、
はたして私は自分で気付けるのだろうか?

「不可能ではない」と言える。

あなただったらできるだろうか?

時と場合による話ですが。
あなたが心の中で考えていることが、
あなたの主観的には正しく感じられても、もし客観的には間違っているのが真実だとしたら。
「あなたの主観的な感覚がそうだと言っている」にもかかわらず、
あなた自身の考えていることが間違っていると、
あなただったら真実に気付けるだろうか?

【全てはイリュージョン(幻影)に過ぎなかった】

誰しもが心に過去からの傷を負っている。
過去のトラウマ。
これを見たくないものとして自分の中でその存在を否認したことにより、
心の中に光の当たらない部分「心の闇」ができた。

触れてはいけないもの、
それについて言及してはいけないアンタッチャブルな心の領域、
それが「心の闇」です。

決して目の届かない心の奥底に封印されている無意識の「心の闇」が時折疼く(うずく)と、
私は不快感を感じて不機嫌になる。

私は「心の闇」の存在を否認しているので、
その不快感が自分の「心の闇」から直接的に来ているものだとは気付かない。

私は「心の闇」が投影(とうえい)されて映し出された外の世界の出来事の方に不快感の原因を見ることになる。

私は他人に悪いところがあるから悪く言っているだけで、
目に見えているそのまんまに、事実を言ってるだけだと思い込んでいる。

外の世界の他者に蔑んで(さげすんで)いるものや嫌いなものを見て、
他人を批判したり悪口を言うことで、
無意識に自分の内側の「心の闇」からくる不快感を除去できると私は勘違いしている。

実際には他人を裁くことにより、私の世界を見る動力源である「心の闇」は増大して、
私は更に不快感を強く感じるようになり、他人への批判や悪口が止められなくなる一方なのです。

問題の本当の原因は世界や他者にあるのではなく自分の「心の闇」にある。
私が批判や悪口を言っている他者とは、
私の「心の闇」の投影先(とうえいさき)として存在しているにすぎない。

私が「心の闇」の投影(とうえい)による批判や悪口によって作り上げている彼の概念は酷い物だが、それは虚像(きょぞう)に過ぎない。
彼に罪悪は無いと彼を赦し(ゆるし)、私自身を赦す(ゆるす)ことで私の「心の闇」に光を当てることができる。

赦しという光によって「心の闇」が消滅すれば蔑んで嫌っていた他者の虚像も姿を消し、
全てはイリュージョン(幻影)に過ぎなかったと知るのです。

【パロディーがオリジナルを超えた!】

神が創造したままのオリジナルの神の子。
彼は神の完全なる寵愛を受けている。

しかし神と共に天国に居たある時、
オリジナルの神の子である私が、もし神から分離できて、
自分で思い通りの自分になるというアイデンティティーを持てたなら、
物凄く特別な存在になれる、という妄想を抱いた。

そう思った瞬間、私は神から授かったままのオリジナルの心が見えなくなりパロディーの存在となった。

同時に神の愛も感じられなくなったが、私の目に映ったのは神の完全なる寵愛を受けている私とは分離したオリジナルの神の子であった。

手の届かない世界。

パロディーとなった私がオリジナルに対して抱いた率直な感情は、

「真っ直ぐに生きるキミが”嫌い”だった
羨ましさを胸に隠して」

というかつてない羨望だった。

私がこの地球世界にやって来た真の目的は
「私の思い描いたパロディーが神が創造したままのオリジナルの神の子を超えた!」

『パロディーがオリジナルを超えた!』

と証明するためであった。

しかしオリジナルは偉大である、パロディーは二次創作に過ぎない。

神が創造したままのオリジナルの心と融合しよう。
あなたはずっとそうだったのでありそれが不可能であるはずがない。

おかえり

【光と闇を抱きしめたまま】

「世界を見る」とは、すなわち解釈であり、つまり「世界の見え方」を伴うということです。
自我による世界の見え方の根底にあるのは欠乏の原理であり、必ず足りないものをそこに見る。

自我は赦しを知らないため、
自我に答えを問うなら、多かれ少なかれ非難と裁きと咎め(とがめ)と不満足が、他人がしたことに対しての受け取り方となる。

この心の中の欠けている部分が、心の闇です。
それを自分の内側に見たくないがゆえに、外の世界に闇を映し出して、
私は他人のせいで不満を感じているのだ、と文句を言うことになる。

私たちは不満の原因は世界や他者にはないと赦すことが求められる。

私たちは神より授かった『たった一つの生命(いのち)』を共有している。

この"たった一つの生命"こそが光であり
私たちを永遠(とわ)に繋ぐ「不滅の絆」である

心の中の闇が外に映し出されることで見えている世界は幻であり、
真の充足は心の内側に神が灯し(ともし)続けている光を認識することで達成される

愛をください "きっと誰もがそう願った"
愛をください "そっと震えた手を取って"

絆は残っているよ どんな時にもね
君の手を見てごらん 光はその手に.....
  • エンジェル・ダスト
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  • 2025/01/26 (Sun) 04:21:08

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