罪悪感の投影(とうえい)をすることは「他人のせいで気分が損なわれている感覚」を引き起こす
罪悪感とは不快なものである。
私が無意識に罪悪感を感じ取ると、不快感、イライラ、不安感、恐れが生じる。
その後、私は外の世界を凝視(ぎょうし)して、他人の中に不快感の原因を見ようとする。

この「自分が苦しいのを他人のせいにする」罪悪感の投影(とうえい)は「無意識」に行われる。
もう一つ、仮に多少の気付きがあったとしても、
「それが重要なことだとは思わない」ので罪悪感の投影に決して注意を払おうとしない、
という2重の盾で罪悪感の投影は守られている。

例えるなら、お金を損するのは少額でも絶対に嫌なのに、
罪悪感の投影をすることは、
一見、「自分が損をすることのようには思えない」ため、
誰も「それが重要なことだとは思わない」。
だから罪悪感の投影には注意を払おうとしない。

しかし罪悪感の投影は欠乏(けつぼう)の原理によって作動する。
したがって私は他人の中に罪を見るのと同時に、
他人のせいで私の気分が損なわれ(そこなわれ)ていると感じ取り不機嫌になる。

「完璧だったのにアイツのせいで傷がついた。」

これが欠乏の原理に従って導き出される答えとなる。

つまり罪悪感の投影をすることは「他人のせいで気分が損なわれている感覚」を引き起こす。

罪悪感の投影が「損失」だと知っているなら、
お金を損することが絶対に嫌なように、
「自分が苦しいのを他人のせいにする」という罪悪感の投影も絶対にしないようにするのではないか?

罪悪感の投影をしてしまっていると気付いた時点で、心を変える決断をして、赦し(ゆるし)を選択するなら、
損なわれていた気分から復活できる。
  • エンジェル・ダスト
  • MAIL
  • 2025/04/20 (Sun) 08:32:21
力は必要ない ただ静かに 心を変えて赦せ(ゆるせ)ばいい
嫌だった過去を思い出した瞬間というのは、いつだって赦して(ゆるして)いない心の状態だ。

私はその時、絶対に相手を赦さない(ゆるさない)つもりでいる。
それは自分を庇うために「自分が苦しいのを人のせいにしている」からだ。

そのトラウマが思い浮かんだ憎しみの心そのまんまに発言したり行動をすると、
つまり罪悪感の投影(とうえい)をすると、本当に自分の損失が確定する。

自分を庇うために自分ファーストで、
「自分が苦しいのを人のせいにしている」のに、結果は自分の損失が確定することになる。
自分さえ良ければそれでいいという自己愛の限界を表している。

相手を赦さない(ゆるさない)でいることは自分に損失をもたらす。
この因果関係が分かっていれば、
実損(じっそん)が生じることは避ける決断をするのが当たり前だから、
嫌だった過去を思い出して、誰かを赦さない(ゆるさない)精神状態だと気付いた瞬間に、
赦していない心の状態から、心を変える決断をして、心の中で赦し(ゆるし)を選択することで自分に実損が生じるのを回避できる。

私は私の心の中でしか考えることはできなのだから、
相手を赦した時、「part of me(私の一部)」が赦され心の闇であるカルマが減少する。

力は必要ない ただ静かに 心を変えて赦せ(ゆるせ)ばいい
  • エンジェル・ダスト
  • MAIL
  • 2025/04/24 (Thu) 06:41:02

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