欲しいものすべて
私たちは何者なのか?
どこから来てどこへ行くのか?

私たちの正体は、肉体でも脳でも物質でも従来の意味の心でもない、
「たった一つの想念」である。

統合失調症患者が好んで使う物差し(ものさし)が、大学受験の偏差値である。
高い偏差値のことを「頭のいい」と、接頭語(せっとうご)を付けて言う。

まるで東大医学部に合格すれば、全能感に浸れるかのように捉え(とらえ)られている。
焦点(しょうてん)はその全能感の誇大妄想についてではない。
「頭のいい」という表現についてだ。
これは三次元物理空間に存在している別個(べっこ)の人間が、私たちであるという前提がある。
他者との差異における優位性(ゆういせい)を保証するのが、「頭がいい」ということである。

その本当の問題は「たった一つの想念」を、そうでないものにできる、
つまり分離(ぶんり)や分割された別個の心が可能だという狂った信念にある。
他者との比較における優越感や劣等感や攻撃や被害者意識や損得勘定や承認欲求などは、全て分離の悪夢である。

世界中の誰もが、本当は自分が何を願っているのかを知っている。

分離した別個の心という間違った認識の訂正(ていせい)とは、
私たちが、溶け合う心「たった一つの想念」として復元すること。

私たちが分離した別個の心というのは 嘘なんだよ.....
皆夢を見ているのさ 
悪い分離の魔法を解くために 私たちの心が溶け合って一つになれば 
夢だから本当は とても とても 心地よいのさ.....
  • エンジェル・ダスト
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  • 2025/05/16 (Fri) 07:36:56
私の統合失調症の「相互主観性の障害」について
私は統合失調症であり「相互主観性(そうごしゅかんせい)」の障害がある。

これは無意識に「他者の主観を排除(はいじょ)する」という、コミュニケーションの障害のことです。

私は言いたいことがあった時、相手の心の感じ方を無視して一方的に言ったりする。

相手の主観を排除して、自分の主観だけで言いたいことを一方的に言う傾向にあります。

私に「主観を排除された人」は私に対して、
「酷い」とか「最低」「言っても分からない」といった印象を持つでしょう。

相互主観性の障害は私の人生において致命的になりうる障害ですが、
未だに(いまだに)克服されていないです。

会話のテクニック的なこともあるでしょうが、
根本は私が、相手の主観に価値を置いていないというのがあると思います。
  • エンジェル・ダスト
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  • 2025/05/22 (Thu) 05:58:18
嫌なことがあった時に生じる二者択一の選択肢
嫌なことがあって腹が立った時、二者択一の選択肢が生じる。

その被害者意識そのまんまに粗暴な言動や振る舞いをして相手を責める(せめる)か?

それとも、赦し(ゆるし)たくないと思っているその瞬間(とき)に、
あえて「心を変える決断」をして赦す(ゆるす)か?

責めることは、
「他人のせいで気分が損なわれている感覚」、つまり心の損失をもたらす。

「心を変える決断」をして赦すことは、
心の平安、つまり心の完全無欠性の再生をもたらす。

どちらがより望ましいと思うだろうか?
  • エンジェル・ダスト
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  • 2025/05/23 (Fri) 08:32:27
ロックが外れる(はずれる)
私には雑念が常にある。
その一つにネット上の特定の統合失調症者に対する蔑み(さげすみ)の雑念がある。

私は雑念がざわつくと、彼のyoutubeを見て、彼の低能力を確認して、
彼の無価値性を見てそこに優越感(ゆうえつかん)を感じている。

更に彼に対して「いじわる」をする思考実験をして面白がっている。
そうしたうえで私は安全であると錯覚している。

この世界を3次元物理空間の物理的因果関係のみから考えるなら、私のしていることは気晴らしとして安全であるとされる。

しかしもし我々人間の正体は「たった一つの想念」であると知っている場合、
想念としての存在の真の因果関係が浮上する。

ズバリ「心の中で他者に向けたメッセージは自分自身に送り返される」である。

3次元空間の物理法則から考えるならナンセンスにしか思えないが、
これが想念における真の因果律(いんがりつ)である。

私が自分自身を「たった一つの想念」から分離した限定された貧しき者と見なしたのでなければ、
彼を同じ欠乏の中に居る蔑まされる(さげすまされる)者と見たりはしなかっただろう。

私は彼に対して「いじわる」な事を考えて彼の価値を最低のラインまで下げようとしたのだが、
私と彼は分断(ぶんだん)されていると見ており、私と彼の分離(ぶんり)のコントラスト(明暗)をより強固なものにしたかった。
それが優越感を生むからである。

しかし物理法則ではない「たった一つの想念」からなる真の因果律により、
「心の中で他者に向けたメッセージは自分自身に送り返される」こととなる。

私が心の中で彼に「いじわる」な考えを持ち、
彼の価値を最低のラインまで下げることで一時の爽快感を得るが、
時間差で立場が反転し、私の方が全く別の他人に「いじわる」なことをされて価値が低いと見なされているのでは?と
私は猜疑心(さいぎしん)に苛まれて(さいなまれて)被害者意識を持つことになる。

しかしこの「たった一つの想念」からなる私たちの真の因果関係を全くフェア(公正)に活用することも可能である。

雑念の中で私が「いじわる」な考えを彼に対して持った時、
一見そうする義理も責任も無いように思えるが、
彼に「いじわる」な考えをしたい欲求の中で、できるだけ早くそのことに気付いて、
あえて、私の「心を変える決断」をして、心の中で彼を赦す(ゆるす)なら、
メッセージは私自身に送り返され、私自身が赦される(ゆるされる)。

誰しもがこのようにして、
自分自身を「たった一つの想念」から分離して限定された貧しき者と見なし閉ざされていた心の「ロックが外れる」。
  • エンジェル・ダスト
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  • 2025/06/04 (Wed) 14:50:24
僕の願いは一つだけ
私がかつてネット上で実現しようとしていたのは「特別性」というゴールである。

それまでの人生で味わった辛酸(しんさん)と苦痛の全てが報われる(むくわれる)瞬間。
万来(ばんらい)の拍手と称賛(しょうさん)と栄光の瞬間を欲していた。

その「想いは届かない」。

なぜならその「特別性」という栄光の瞬間の真の正体は虚構(きょこう)であり、
ゴール(到達地点)自体が虚空(こくう)だから。

本当はそこに何も無いことを知っているのに、
虚栄心(きょえいしん)故(ゆえ)に、その真実を直視できなかった。

しかしこの「特別性」を放棄することで、
私たちの正体が溶け合う心「たった一つの想念(そうねん)」であると、正しく認識することが可能になる。

「僕の願いは一つだけ」
「特別性のゴール」か?「たった一つの想念」か?

「たった一つの想念」との融合は、
それが「欲しいものすべて」である証として「Perfect feeling(完璧なフィーリング)」と「カタルシス(精神の浄化)」を伴う(ともなう)。
  • エンジェル・ダスト
  • MAIL
  • 2025/06/16 (Mon) 06:20:46
ひとつであるものに特別性はあり得ない
私たちの遥かなる故郷である天国での、神と神の子の本来の関係では決して伴わない感覚は、
全て「特別性(とくべつせい)」である。

優越感や劣等感や攻撃や被害者意識や損得勘定や復讐心や承認欲求などは、
全て「特別性」であり分離の悪夢である。

過去のトラウマを思い出して被害者意識という、
「特別性に憑りつかれて(とりつかれて)」メンタルが低下したら、
神が創造したままのオリジナルの神の子の「たった一つの想念(そうねん)」のことを思い出して、
以下のフレーズをなんとか全部思い出すことにしている。

「私たちの正体はたった一つの想念である」
「ひとつであるものに特別性はあり得ない」
「特別性は損失(そんしつ)である」
「赦し(ゆるし)が最も必要とされるのは赦していない時である」
「赦しとは心を変える決断である」
「心の中で他者に向けたメッセージは自分自身に送り返される」
「赦した者は赦された者となり 同じ光を分け合う」

をできるだけ素早く思い出して被害者意識という特別性を放棄することにしたい。
私が相手を心の中で本当に赦すなら、心の中のメッセージは私自身に送り返されて、私自身が赦される(ゆるされる)。

分離の悪夢から目覚めて、
「欲しいものすべて」である「たった一つの想念」へと自らの心を復元するために。
  • エンジェル・ダスト
  • MAIL
  • 2025/06/20 (Fri) 06:29:05
欲しいものすべては他人の中にそれを認めて、分かち合うことでしか自分のものにはならない
私たちの心の中には2つの視点が存在する。
一つは分離の想念である特別性の自我の視点。
もうひとつは溶け合う心であり「欲しいものすべて」である「たった一つの想念」の視点。

自我の特別性の目的とは、自分だけがより多く独占することである。
より多くでなければならない、何をより多くかは問題ではない、より多くを独占するために自我の特別性が存在する。

一方「たった一つの想念」は共有されるものであり、融合、一致、一体性、完全無欠性を意味する。
私とあなたは分離していない、私が持っているものであなたが持っていないものは無い。
私たちは同じ光を分け合っているという確信である。

苦しい時「なんで自分だけがこんな目に」と言うが、
そもそも「自分だけが」ということが可能だという、特別性の信念が分離の想念であり、苦痛の真の正体である。

世界中の誰もが本当は心の奥で「たった一つの想念」と繋がっている。
それを知らないのは、自分の心に鍵をかけて思い出せないだけである。

その「たった一つの想念」にかけたロックが外れる条件は
「神の栄光において同等の権利を全ての人の中に認めているかどうか?」である。

私たちは互いにREVIVER(復活する者)なのであり、私だけが圧勝するという願望は自我の特別性の悪夢でしかない。
そうでない人が居るように見えるのは、単に心に鍵がかかっているだけである。
鍵をかけることで、自分の心の秘密の宝箱に欲しいものを全部独り占めにできる、という特別性に憑りつかれて(とりつかれて)、分離の悪夢を見ているだけである。

「たった一つの想念」と繋がることは、世界中の誰もが授かっている権利である。
自我の特別性の視点では、全てを手に入れることができるのは究極的には一人だけであり、それが自分だったらと夢を見る。

一方「たった一つの想念」は、共有、融合、一致、一体性、完全無欠性を意味し、
つまり「欲しいものすべて」は他人の中にそれを認めて、分かち合うことでしか自分のものにはならない。
  • エンジェル・ダスト
  • MAIL
  • 2025/06/26 (Thu) 02:26:13

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