【can you keep a secret? (秘密を守れますか?)】
私たちが見ている世界というのは、
映写機(えいしゃき)である無意識の「心の闇」が投影(とうえい)されて、
頭の中のスクリーンに映し出されたものである。
私が不快感から不満や文句を言う時、「何かがそれに先行していたはずである」
それが無意識の「心の闇」です。
私はなぜ不快になるのか、背後にある自分の「心の闇」には気付いていない。
私が見ているそのまんまに、世界に問題があるのだと、
私は自分に騙されて(だまされて)いる。
「心の闇」が頭の中のスクリーンに映し出された現実世界というのは、
私の心を幻惑(げんわく)するためのイリュージョン(幻影)なのです。
「心の闇」が深い程、
見えている世界で起こる問題の演出もより強大なものとなり、
私はそれを凝視(ぎょうし)して、心が問題に釘付けになり、
イリュージョン(幻影)の世界に幻惑され続ける。
この闇の世界を照らす(てらす)唯一の光が私たちの心の中にある。
can you keep a secret? (秘密を守れますか?)
今から言うことを聴いて
この世界はあなたの自我の夢であるという点において、
この世界の全てはあなたに関連付けたものとしてしか意味を成さない。
なぜあなたは私に質問するのか?
なんで私が知ってることになっているのか?
これは「あなたの」夢でしょう
もっと言うと真実を探求しているのはあなたなのだから、思い出せるのは「あなただけ」でしょう。
あなたが知らないなら誰も知らない。
あなたが知っているなら皆知ってる。
これはあなたの夢なのだから.....
【欲しいものすべて】
私たちは何者なのか?
どこから来てどこへ行くのか?
私たちの正体は、肉体でも脳でも物質でも従来の意味の心でもない、
「たった一つの想念」である。
統合失調症患者が好んで使う物差し(ものさし)が、大学受験の偏差値である。
高い偏差値のことを「頭のいい」と、接頭語(せっとうご)を付けて言う。
まるで東大医学部に合格すれば、全能感に浸れるかのように捉え(とらえ)られている。
焦点(しょうてん)はその全能感の誇大妄想についてではない。
「頭のいい」という表現についてだ。
これは三次元物理空間に存在している別個(べっこ)の人間が、私たちであるという前提がある。
他者との差異における優位性(ゆういせい)を保証するのが、「頭がいい」ということである。
その本当の問題は「たった一つの想念」を、そうでないものにできる、
つまり分離(ぶんり)や分割された別個の心が可能だという狂った信念にある。
他者との比較における優越感や劣等感や攻撃や被害者意識や損得勘定や承認欲求などは、全て分離の悪夢である。
世界中の誰もが、本当は自分が何を願っているのかを知っている。
分離した別個の心という間違った認識の訂正(ていせい)とは、
私たちが、溶け合う心「たった一つの想念」として復元すること。
私たちが分離した別個の心というのは 嘘なんだよ.....
皆夢を見ているのさ
悪い分離の魔法を解くために 私たちの心が溶け合って一つになれば
夢だから本当は とても とても 心地よいのさ.....
【私の一部(part of me)】
私には病気の過去のトラウマがある。
私がトラウマを思い出す時、反射的に自分を庇う(かばう)ために、自分が苦しいのを人のせいにする。
この苦痛の責任は私にはない、相手が処罰されるべきで、私は救われるべきだと。
私は自分を庇うために他者を憎むのだが、それは逆効果であり、私自身を傷つける。
私が考えることは全て、私の心の一部となる。
私は私の心の中でしか考えることができない。
私が誰かを憎む時、それも「私の一部(part of me)」となる。
従って(したがって)その憎しみは私自身である。
私は自分自身に影響を与えずに他者を憎むことはできない。
これが想念(そうねん)の性質です。
心の中で愛したり憎んだりする対象(たいしょう)に、私やあなたという区別はなく、
私たちの正体は「たった一つの想念」なのです。
従って心の中で相手を赦す(ゆるす)ことは私自身に赦しをもたらす。
もう自分を憎まなくてもいいのです。
【分かり合えない心の、途方もない「隔たり」こそが、投影の本質である】
特別性の投影(とうえい)によって我々に見えている、数々(かずかず)の諸問題(しょもんだい)は、
他者との「心の隔たり(へだたり)」の中で起こる。
分かり合えない心の、途方(とほう)もない「隔たり」こそが、投影の本質(ほんしつ)である。
その問題は遡る(さかのぼる)と、場合によっては、
「宇宙開闢(うちゅうかいびゃく)137億年」という巨大な「隔たり」を起源(きげん)としている。
その他者との問題は、究極的には宇宙の始まりに戻って、初期条件を変えなければ訂正不可能(ていせいふかのう)だとされる。
しかし赦し(ゆるし)による間違いの訂正である、奇跡(きせき)の発動は、
自分の胸の心からゼロ距離ゼロ時間の、今この瞬間という一体性(いったいせい)の中で起こる。
投影による、厖大(ぼうだい)な時間と距離の巨大な「隔たり」という、他者との問題解決は、
一見途方もない「コスト(代価)」を要求するが、
赦しによる訂正は、ゼロ距離ゼロ時間「ゼロ・コスト」の、一体性と一致(いっち)の中で発動する。
このようにして特別性の投影による「隔たり」という他者との問題は、赦しの一体性の奇跡によって訂正される。
【罪悪感の投影をすることは「他人のせいで気分が損なわれている感覚」を引き起こす】
罪悪感とは不快なものである。
私が無意識に罪悪感を感じ取ると、不快感、イライラ、不安感、恐れが生じる。
その後、私は外の世界を凝視(ぎょうし)して、他人の中に不快感の原因を見ようとする。
この「自分が苦しいのを他人のせいにする」罪悪感の投影(とうえい)は「無意識」に行われる。
もう一つ、仮に多少の気付きがあったとしても、
「それが重要なことだとは思わない」ので罪悪感の投影に決して注意を払おうとしない、
という2重の盾で罪悪感の投影は守られている。
例えるなら、お金を損するのは少額でも絶対に嫌なのに、
罪悪感の投影をすることは、
一見、「自分が損をすることのようには思えない」ため、
誰も「それが重要なことだとは思わない」。
だから罪悪感の投影には注意を払おうとしない。
しかし罪悪感の投影は欠乏(けつぼう)の原理によって作動する。
従って(したがって)私は他人の中に罪を見るのと同時に、
他人のせいで私の気分が損なわれ(そこなわれ)ていると感じ取り不機嫌になる。
「完璧だったのにアイツのせいで傷がついた。」
これが欠乏の原理に従って導き出される答えとなる。
つまり罪悪感の投影をすることは「他人のせいで気分が損なわれている感覚」を引き起こす。
罪悪感の投影が「損失」だと知っているなら、
お金を損することが絶対に嫌なように、
「自分が苦しいのを他人のせいにする」という罪悪感の投影も絶対にしないようにするのではないか?
罪悪感の投影をしてしまっていると気付いた時点で、心を変える決断をして、赦し(ゆるし)を選択するなら、
損なわれていた気分から復活できる。
【標(しるべ)】
言葉によって傷ついたり腹が立つ原因は、相手の言葉の意味にあるのだと私は誤解していた。
気付くべきである。
その体験に私がした解釈(かいしゃく)は、私の無意識の「心の闇」の投影(とうえい)であったと。
「相手が私の心の触れて(ふれて)はいけない部分に触れた。」
この解釈には訂正が必要である。
「彼が私の心に触れたのではない。
私が彼の言葉に私の無自覚(むじかく)の心の闇を投影したのだ。」
「私の心の闇を投影して、その体験を酷いと”解釈することで"、それをそのようなものにしたのは他ならぬ私自身である。」
彼の言葉を標(しるべ)として利用すべきである。
腹が立つ本当の原因は彼の言葉には無く、真の原因は無意識に行われている私の心の闇の投影にあった。
私はそのことに彼の言葉で気付いて、
彼は完全に無罪であると彼を赦す(ゆるす)ことで私自身が救われるのです。
赦した(ゆるした)者と 赦された者 同じ光を分け合って
【怒りや憎しみで心の闇を倒すことはできない】
私は過去のトラウマを思い出した時、それがいかに酷い話だったかを考える。
そして被害者意識で解釈(かいしゃく)して、その酷い話が真実だったと確信(かくしん)している。
「なぜなら私の感覚がそうだと言っているから」です。
だが酷いと解釈することによって、
「それをそのようなものにしたのは他ならぬ私自身である」と認めなければならない。
私が「心の闇」を持っているのなら、
その無意識の心の闇は頭の中のスクリーンに投影され、
映し出されたイメージを憎しみと共に解釈して、その酷い話が真実だったと確信するだろう。
つまりトラウマを頭の中で思い出した時、背後には自分の「心の闇」があるのです。
「怒りや憎しみで自分の心の闇を倒すことはできぬ」
「怒りでも、憎しみでもない。赦しこそが闇を克服(こくふく)し、心に光をもたらすのだ」
【心の中の特別性】
私には私が蔑んでる(さげすんでる)人のインターネット上の日記(ブログ)を見たり、
私の誹謗中傷のネット掲示板を見てしまうという心の闇がある。
メリットが何も無く心を蝕む(むしばむ)だけだと分かっていることをするのはネット依存症なのです。
だがこれらの蔑んでる人のブログやネット掲示板を見る前に「何かが先行していた」はずである。
それは心の中の特別性である。
私はかつて遥かなる故郷で神に、
「私が作り出した私の自我を、神が創造したままのオリジナルの神の子以上であると認めろ」
と特別な好意の承認欲求をしたが、神はそれに何も返さなかった。
神と神の子のオリジナルの関係以外に本当の愛は存在しないからです。
自我は特別な好意を求めるという、特別性の承認欲求を他人にする。
それは神と神の子の間で交わされていた本物の愛の代替品(だいたいひん)です。
特別性とは他者との比較において有利性や優越感を感じることで、
神の愛を失ったことで心にぽっかりと空いた穴を充足できるという幻想です。
私が蔑んでる人のブログや、私の誹謗中傷のネット掲示板を見る前に、
必ずこれらの特別性を求めるという心の中の決断が先行しているのです。
私は心の中で特別性を求めるという選択をしてその後、
蔑んでる人のブログや、ネット掲示板を見て、
そしてそれらの特別性に私は必ず落胆(らくたん)を感じるのです。
特別性とは神の愛の代替品です。
それよりもオリジナルをその手に取り戻すべきなのです。
例えばあなたが他者との関係で、
かつての神と神の子で交わされて(かわされて)いたオリジナルの関係を再現(さいげん)するなら、
あなたは心の奥底にある、遥かなる故郷の記憶の封印を解くことになる。
【トラウマからの解放】
「自分が苦しいのを人のせいにする」というのは割と一般的だ。
過去に嫌な出来事があった。
起こった事は変えられないし、その時に苦しむのは不可避(ふかひ)です。
だがこれはキッカケに過ぎない。
その後、それがトラウマとなることで、思い出す度に何度でも苦しむことになるのです。
時折過去のトラウマを思い出すが、
その時、自分を庇う(かばう)ために反射的に被害者意識を持つ。
「彼の落ち度のせいで私は苦痛を被った(こうむった)」
この頭に思い浮かんだそのまんまが真実だとしたら、私の苦痛の原因は彼にあるということになる。
私は過去の嫌な体験で傷つき、今度はそれを思い出すことによって再び傷つく。
何度でも思い出してその度に傷つく。
この思い出すことによって再び傷つくのは本当に彼のせいなのだろうか?
本当は全部自分でやっているのではないか?
自分で思い出して自分の心を傷つけて自傷行為をしているだけではないか?
それは本当に他人のせいなのだろうか?
この時何が起こっているのか?
思い出すことによって過去の出来事があった場面が脳裏(のうり)のスクリーンに映し出されているのだが、
その映写機(えいしゃき)は背後の自分の心にある。
それが「心の闇」である。
無意識の心の中の憎悪や欠乏感、罪悪感、自分を否定する感情、が自分の脳裏のスクリーンに映し出されてイメージとなり、
それが過去のトラウマを思い出すということです。
私は自分が苦しいのを頭の中のスクリーンに映し出された彼のせいにしている。
「彼の落ち度が私の苦痛の原因だ」と。
「なぜなら私の感覚がそうだと言っているからだ」と思っているが、
イメージされた彼は、「心の闇」が自分の頭の中のスクリーンに映し出されたイリュージョン(幻影)に過ぎない。
イリュージョン(幻影)はなんのためにある?
「心の闇」が憎悪を栄養として必要としていて、そしてそれは私が自分で気付かないようなやり方でなされるのです。
頭の中のスクリーンに映った彼を憎悪することで、
つまり「自分が苦しいのを人のせいにする」ことによって、無意識の「心の闇」は増大するのです。
こうして私は被害者意識を持ち続けることになるし、
嫌な思いをする度に「自分が苦しいのを人のせいにする」という考え方をずっと続ける。
つまり私は無意識の「心の闇」を持ち続けるのです。
これがイリュージョン(幻影)の目的です。
では心の闇から解放されるにはどうしたらよいか?
それは「心の闇」がイリュージョン(幻影)であるトラウマ(私は本当にこれが好きなんだなぁと思う)を脳裏のスクリーンに映し出した時、
「苦痛の原因は彼らにあるのではなく私自身の心の闇にある、だからこのイリュージョン(幻影)の登場人物の彼を私は赦す(ゆるす)という決断をする」ということです。
こうして彼に赦し(ゆるし)が与えられ、
同時に原因である私の「心の闇」が赦される(ゆるされる)。
やがては私に嫌な思いをさせた他者を脳裏のスクリーンに再現させる必要性が無くなるのです。
これにより過去を思い出してその度に不快になるという繰り返しに終止符が打たれる。
【正解】
過去の嫌だったことを思い出すと、反射的に自分を庇う(かばう)ために被害者意識に囚われる(とらわれる)。
自我はその嫌だった過去を理由に、私が心に憎悪の意思を持つことを強要してくる。
そして私は、心の中に憎悪の他に選択肢は無いと誤解し、私は正しいのだと騙されて(だまされて)しまう。
「なぜなら私の感覚がそうだと言っているからだ」と。
主観的(しゅかんてき)には「私の感覚がそうだと言っている」にもかかわらず、
自分の被害者意識による憎悪が、客観的(きゃっかんてき)には間違っているのだと、
はたして私は自分で気付けるのだろうか?
「不可能ではない」と言える。
あなただったらできるだろうか?
時と場合による話ですが。
あなたが心の中で考えていることが、
あなたの主観的には正しく感じられても、もし客観的には間違っているのが真実だとしたら。
「あなたの主観的な感覚がそうだと言っている」にもかかわらず、
あなた自身の考えていることが間違っていると、
あなただったら真実に気付けるだろうか?
【全てはイリュージョン(幻影)に過ぎなかった】
誰しもが心に過去からの傷を負っている。
過去のトラウマ。
これを見たくないものとして自分の中でその存在を否認したことにより、
心の中に光の当たらない部分「心の闇」ができた。
触れてはいけないもの、
それについて言及してはいけないアンタッチャブルな心の領域、
それが「心の闇」です。
決して目の届かない心の奥底に封印されている無意識の「心の闇」が時折疼く(うずく)と、
私は不快感を感じて不機嫌になる。
私は「心の闇」の存在を否認しているので、
その不快感が自分の「心の闇」から直接的に来ているものだとは気付かない。
私は「心の闇」が投影(とうえい)されて映し出された外の世界の出来事の方に不快感の原因を見ることになる。
私は他人に悪いところがあるから悪く言っているだけで、
目に見えているそのまんまに、事実を言ってるだけだと思い込んでいる。
外の世界の他者に蔑んで(さげすんで)いるものや嫌いなものを見て、
他人を批判したり悪口を言うことで、
無意識に自分の内側の「心の闇」からくる不快感を除去できると私は勘違いしている。
実際には他人を裁くことにより、私の世界を見る動力源である「心の闇」は増大して、
私は更に不快感を強く感じるようになり、他人への批判や悪口が止められなくなる一方なのです。
問題の本当の原因は世界や他者にあるのではなく自分の「心の闇」にある。
私が批判や悪口を言っている他者とは、
私の「心の闇」の投影先(とうえいさき)として存在しているにすぎない。
私が「心の闇」の投影(とうえい)による批判や悪口によって作り上げている彼の概念は酷い物だが、それは虚像(きょぞう)に過ぎない。
彼に罪悪は無いと彼を赦し(ゆるし)、私自身を赦す(ゆるす)ことで私の「心の闇」に光を当てることができる。
赦しという光によって「心の闇」が消滅すれば蔑んで嫌っていた他者の虚像も姿を消し、
全てはイリュージョン(幻影)に過ぎなかったと知るのです。
【パロディーがオリジナルを超えた!】
神が創造したままのオリジナルの神の子。
彼は神の完全なる寵愛を受けている。
しかし神と共に天国に居たある時、
オリジナルの神の子である私が、もし神から分離できて、
自分で思い通りの自分になるというアイデンティティーを持てたなら、
物凄く特別な存在になれる、という妄想を抱いた。
そう思った瞬間、私は神から授かったままのオリジナルの心が見えなくなりパロディーの存在となった。
同時に神の愛も感じられなくなったが、私の目に映ったのは神の完全なる寵愛を受けている私とは分離したオリジナルの神の子であった。
手の届かない世界。
パロディーとなった私がオリジナルに対して抱いた率直な感情は、
「真っ直ぐに生きるキミが”嫌い”だった
羨ましさを胸に隠して」
というかつてない羨望だった。
私がこの地球世界にやって来た真の目的は
「私の思い描いたパロディーが神が創造したままのオリジナルの神の子を超えた!」
『パロディーがオリジナルを超えた!』
と証明するためであった。
しかしオリジナルは偉大である、パロディーは二次創作に過ぎない。
神が創造したままのオリジナルの心と融合しよう。
あなたはずっとそうだったのでありそれが不可能であるはずがない。
おかえり
【光と闇を抱きしめたまま】
「世界を見る」とは、すなわち解釈であり、つまり「世界の見え方」を伴うということです。
自我による世界の見え方の根底にあるのは欠乏の原理であり、必ず足りないものをそこに見る。
自我は赦しを知らないため、
自我に答えを問うなら、多かれ少なかれ非難と裁きと咎め(とがめ)と不満足が、他人がしたことに対しての受け取り方となる。
この心の中の欠けている部分が、心の闇です。
それを自分の内側に見たくないがゆえに、外の世界に闇を映し出して、
私は他人のせいで不満を感じているのだ、と文句を言うことになる。
私たちは不満の原因は世界や他者にはないと赦すことが求められる。
私たちは神より授かった『たった一つの生命(いのち)』を共有している。
この"たった一つの生命"こそが光であり
私たちを永遠(とわ)に繋ぐ「不滅の絆」である
心の中の闇が外に映し出されることで見えている世界は幻であり、
真の充足は心の内側に神が灯し(ともし)続けている光を認識することで達成される
愛をください "きっと誰もがそう願った"
愛をください "そっと震えた手を取って"
絆は残っているよ どんな時にもね
君の手を見てごらん 光はその手に.....
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- エンジェル・ダスト
- 2025/08/17 (Sun) 09:08:54